村上春樹が人生で巡り会った、最も大切な小説を、あなたに。新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語―。
読書家として夢中になり、小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作に、翻訳家として挑む、構想二十年、満を持しての訳業。
アメリカ東部の高級住宅街でボクはギャツビーという男と出会った。
彼は対岸にある一軒の家を眺められる場所に居を構えている。
対岸の家とはデイジーという長年の思い人が夫と幼い娘とともに暮らす場所だった。
ギャツビーはデイジーの心を再度自分に向けようと試みるのだが、ある悲劇がふりかかかる…。
私がこの小説を手にするのはこれで3度目です。
もう20年以上も前にPenguin Classics版『The Great Gatsby 』を手にしたのが最初です。
冒頭と末尾の文章の美しさに強烈な印象を受けたことを覚えていますが、比較的難解な英語で綴られた全体像は基本的な展開を読解するのでせいいっぱいだったという記憶があります。
2度目は野崎孝訳の新潮文庫版『グレート・ギャツビー 』。
こちらも日本語訳は読みやすかったという印象がありません。
今回の村上春樹訳でも文章は心なしか装飾的な気がします。
しかし今回巻末の訳者あとがきを読んであらためて分かったのは、「『グレート・ギャツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品であり、英語で一行一行丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない」小説だということです。
「この原文がまた一筋縄ではいかない。空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく。
その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。」
村上春樹訳でその美しい文体がどこまで英語から日本語にうまく移植されたのかは分かりませんが、3度目の挑戦でおぼろげながらギャツビーの魅力が見えて気がしたのも事実です。
いずれ再度英語で手にして4度目の挑戦をする必要があるかもしれない。
そんな気分がしています。
「彼女の声、それは金にあふれた声だった。高く低く波動する尽きせぬ魅力があった」
デイズィという女性を表現する、有名な一文。
ぎらぎらの野望で短い人生を駆け抜けたぎギャツビーの原動力となったのは、この女性だった。
結局デイズィという女性は単なる愛情の対象としての女性ではなく、上流階級の象徴であり、ひいてはギャツビーにとって絶対かなえなくてはいけない『夢』であった。
それさえ手に入れる事ができれば全てを手に入れられる、約束された土地。
しかし、『夢』は実態のない、コントロールできないものだった。
クライマックスにくるまで、デイズィに対するネガティブな描写はでてこない。
怠惰で派手でぜいたくな、社交生活を繰り広げる上流階級の人々の様子に読者は虚しさを覚えるだろう。
しかしその中で唯一、デイズィは常に鈴の音のような声で、その世界の先にきらきらしたものが待っているかのように、ギャツビーを魅了する。
しかし、ギャツビーの命があっけなく奪われた後葬式にデイズィは電話のひとつも花の一輪もよこさない。
ニックは彼女の本質を次のようにみている。
「トムもデイズィもー品物でも人間でもを、めちゃめちゃにしておきながら、自分たちは、すっと、金だか、あきれるほどの不注意だか、その他なんだか知らないが、とにかく二人を結びつけているものの中に退却してしまって、自分たちのしでかしたごちゃごちゃの後片付けは他人にさせる・・・」
ギャツビーは、デイズィの家の桟橋の突端に輝く緑色の灯をみた。
その緑色の灯こそ、手にすることのできないデイズィという女性そのものだったように思える。
この物語は、夢を追わずにはいられない人間の性とその美しさを描く一方、夢につきものの、そのはかなさと虚しさを描いている。
読んだ後切なく、なにか実体のないものに郷愁を覚えるのはそこに普遍性を感じるからだろう。